「西郷どん」キャストと人物紹介!西郷隆盛の生涯プロフィール

 

日本人なら知らない人はいないという位に、言わずと知れた有名人の西郷隆盛。

2018年大河ドラマは、そんな歴史的有名人が主人公の「西郷どん」に決定しました。

西郷隆盛…確かに学校で習った。薩摩の人だよね…。で?何をした人だっけ…??

幕末って色々な人やら藩やら思想やらが出てきて訳が分からなくなります。

大河ドラマ「西郷どん」が始まる前に西郷隆盛の生涯と生きた時代を探っていきたいと思います。

スポンサーリンク

「西郷どん」西郷隆盛プロフィール

  • 生年月日 : 1828年1月23日
  • 没年 : 1877年9月24日(享年49歳)

→西郷隆盛が生まれたのは 第11代将軍 徳川家斉の時代です。

  • 身長 : 約181cm
  • 体重 : 約109kg

この時代にしては大きい人ですね。

  • 出身地 : 薩摩国鹿児島城下加治屋町
    (現 鹿児島県鹿児島市加治屋町)

西郷隆盛役は鈴木亮平さん

役づくりか?少しふっくらした鈴木亮平さん

  • 父 : 西郷吉右衛門隆盛(風間杜夫さん)
    →薩摩の下級武士
    →お父さんと隆盛が同名になってしまった訳は後述します。
  • 母: 西郷満佐子
  • 弟 :
    ・西郷吉二郎(戊辰戦争で戦死)
    ・西郷従道(元帥海軍大将、従一位大勲位功二級侯爵)明治政府の重鎮となる。
    ・西郷小兵衛(西南戦争で戦死)

西郷吉二郎役は渡部豪太さん

西郷従道役は関ジャニ∞錦戸亮さん

https://twitter.com/tukapon_113/status/915131854436524032

  • 妻 :
    ・須賀(伊集院兼寛の姉)
    →1852年に結婚するもすぐに離縁
  • 愛加那(奄美大島の名家 龍家の娘)
    →奄美大島に潜伏中の1859年に「島妻(あんご)」に
    する。現代で言うところの現地妻。
    隆盛は島津久光の召喚状を受け、1862年1月に奄美大
    島を出るが、当時のきまりで島から連れ出せなかった。
  • 糸(岩山八郎太の二女)
    →1865年に鹿児島で結婚。

「西郷どん」2番目の妻 愛加那役は二階堂ふみさん

「西郷どん」3番目の妻 糸役は黒木華さん

西郷隆盛の子供

愛加那との子

  • 1960年 菊次郎(政治家、外交官、後の京都市長)
  • 1962年 お菊(菊子 大山巌の弟 誠之助と結婚)

糸との子

  • 1866年 寅太郎(陸軍大佐 侯爵)
  • 1870年 牛次郎(近藤廉平 秘書)
  • 1873年 酉三

 西郷隆盛の生涯 〜下級武士からの出世物語 ①〜島津斉彬に見出されるまで

西郷隆盛の本名

幼名は小吉(通称は 吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助)位階を授けられる際の届け出を親友吉井友実が誤って父 吉兵衛隆盛の名で提出したため、父と同名となったそうです。

西郷三助、菊池源吾、大島三右衛門、大島吉之助などと名乗ったこともあるとか。

名前、変わり過ぎです…。

スポンサーリンク

武芸を諦め学問に打ち込む。

下級藩士の子である西郷隆盛ですが、子供の頃におった怪我が原因で肘を曲げることができなくなり、武芸の道は諦めて学問に励んだと言われています。

【1844年】
薩摩藩の他の武士の子弟同様に、隆盛は16歳で低い役職に就くことになります。

隆盛は読み書きが得意であったので役所の郡方書役助という今で言う事務補助の仕事につきます。

この時の上司(郡奉行)が迫田利済という人で、彼は重税に苦しむ農民の状況に憤りを感じ郡奉行を辞職します。

「国の根本を成すのは農民である」という迫田の考え方は彼から農政を学んだ西郷隆盛に受け継がれます。

また、伊藤茂右衛門に陽明学を、無参和尚に禅を学んだのもこの頃です。

第28代薩摩藩主 島津斉彬に見出される

カリスマ島津斉彬役は渡辺謙さん。

  • 【1851年】
    2月2日、名君として名高い島津斉彬は父との確執やお家騒動を乗り越え、40歳を過ぎてやっとのことで第28代薩摩藩主に就任しました。斉彬は藩主となると、多くの新規事業をおこし藩の近代化を推進すると同時に、人材育成や人材登用、発掘にも力を入れていました。斉彬は藩政に対しての意見を藩士たちに求め、隆盛は度々意見書を提出します。
    それは農政のことであったり、お家騒動で島に流された者や謹慎になった者の処分が解かれていないことに対する意見だったと言います。

やがて、この隆盛の意見書が斉彬の目にとまります。

  • 【1853年】
    6月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが浦和に来航し(黒船)、開国を迫ります。
    同じ月に、第12代将軍 徳川家慶が死去します。
    11月、徳川家定が第13代将軍となります。

第13代将軍 徳川家定を演じるのはピース又吉さん。

  • 【1854年】鎖国体制の終焉の年

1月、ペリーが再び来航します。
幕府はアメリカ年と「日米和親条約」を結び、下田と函館を開港します。

隆盛は「中御小姓、定御供、江戸詰」となり、斉彬の参勤に付いて江戸に行くことになりました。

4月、江戸の薩摩藩邸に勤めることになった西郷隆盛は島津斉彬の「庭型役」に任命されます。

斉彬が隆盛を「庭型役」に任命したのには訳がありました。

当時は厳格な身分制度があり、隆盛のような下級武士は身分の高い人たちには簡単に会えない時代でした。

そこで偶然に庭で会って話したという建前のために「庭型役」に任命したのです。

事実上、斉彬の直属の部下になったということになります。

そして隆盛は斉彬から諸外国の事や国政などを学ぶ機会を得て斉彬の右腕となっていきます。

やがて諸藩の動向を探る役目を与えらると、藤田東湖、橋本左内など、様々な人々と交流を持つようになり、藩外にもその名を知られるようになります。

幕末ってどんな時代?西郷隆盛って何者?

日本の危機!諸外国からの圧力と、将軍継嗣問題

1853年、東インド艦隊司令官 ペリーが浦和に来航したアメリカだけでなく、ロシア、イギリス、オランダも開国を迫って来ていました。

これらの諸外国からの圧力に対して幕府は確かな方針や対策を持っていませんでした。

以前から諸外国に対し危機感を感じていた斉彬は、公武親和(「公」は朝廷、「武」は幕府をさす)による幕府を中心とした中央集権体制の確立と、富国強兵により国防力を上げ、諸外国に対処することを進言しています。

しかし、時の将軍であった徳川家定は心身ともに虚弱であり、この国難に立ち向かえるような強いリーダーシップを持った将軍ではありませんでした。

大河ドラマ「西郷どん」では、どんな家定が描かれるのでしょうか。

【1855年】

  • 隆盛、西郷家の家督を継ぐ
  • 斉彬の命で政治資金を賜るようになる

【1856年】

  • 12月、幕府側からの要請もあり斉彬の養女 篤姫が第13代将軍 徳川家定に輿入れして正室となり、年寄の幾島を伴って大奥に入ります。

篤姫を演じるのは大河初出演 北川景子さん

篤姫の教育係で年寄 幾島

斉藤由貴さんの代役に南野陽子さんに決定。
スケバン刑事繋がりを狙った?

しかしながら、家定の健康状態が良くなく、男子を儲ける見込みがなかったため、将軍継嗣問題が勃発します。

幕府への発言力を強めていた斉彬は、水戸徳川家出身で聡明であると評判の一橋家当主 一橋慶喜を14代将軍にしようと考え、老中 阿部正弘や土佐藩主 山内豊信、福井藩主 松平慶永などと慶喜を将軍に擁立するべく運動をおこします。

西郷隆盛は斉彬の使者として諸大名や朝庭などに14代将軍を慶喜にする働きかけを行ないます。

阿部正弘を演じるのは藤木直人さん。

ところが、この将軍継嗣問題に対抗馬が現れます。

紀州藩附家老 水野忠央が、徳川御三家である紀州藩主 徳川慶福(よしとみ)をわずか10歳ながら将軍家により近い血筋であるということを理由に推してきます。

  • また、水野忠央と通じていた井伊直弼が幕府の大老に就任すると、その権力を使って徳川慶福を次期将軍に内定し、時の天皇である孝明天皇の勅許もないまま、「日米修好通商条約」を結びます。

【1858年】

  • 6月

井伊直弼、幕府の大老に就任。不平等条約と言われる「日米修好通商条約」を締結します。

この5日後、徳川斉昭らは井伊直弼の責任を問うため江戸城に向かいましたが、逆に不法な登城であると処罰されました。
また、孝明天皇も井伊直弼に対して京都に来説明するよう求めますが、なんとこの勅命を無視します。

この井伊直弼の強硬な行動に対し「尊王攘夷運動」が全国に広がっていきます。
しかし、大老 井伊直弼はこれら尊王攘夷派に対し「安政の大獄」といわれる弾圧を行います。
実質、一橋派への弾圧となりました。

  • 7月
    ・日英修好通商条約、日露修好通商条約締結。
    ・徳川家定 死去
    ・島津斉彬 急死
  • 10月
    ・徳川家茂(慶福)が第14代将軍に就任
  • 11月
    ・隆盛、月照と共に入水自殺をはかる。

井伊直弼を演じるのは佐野史郎さん

スポンサーリンク

君主 島津斉彬の死

このように、井伊直弼は権力を使った強引な方法に不満を持つ人々が沢山いました。

薩摩の藩主 島津斉彬ももちろんその1人でした。

斉彬は井伊直弼に対抗すべく、薩摩から兵を率いて京都に入り朝廷からの勅許を得て幕府に対し政治改革を迫るという計画をし、実行しようとしていました。

西郷隆盛は斉彬からの指示を受け、福岡藩主 黒田斉溥のもとに訪れ斉彬の計画を伝えた後、京都や大阪で下準備に奔走します。

しかし、不幸が2つ続きます。

 

  • 1858年8月14日に徳川家定が死没。

 

  • 1858年8月24日に島津斉彬が急死。

この時、斉彬の子はまだ2歳だったため、斉彬亡き後の薩摩藩主には島津久光の子である茂久(忠徳→忠義)がなり、斉彬の父 斉興が後見となり事実上の藩の実権をにぎります。

しかし、斉興もすぐに亡くなると、久光が実権を握るようになりました。

島津久光(島津斉彬の異母弟)役は青木崇高さん

→お由羅(側室)の子。島津家の跡取り問題では斉彬の対抗馬となった。

→久光の八女は久邇宮邦彦王妃であり、昭和天皇の皇后である香淳皇后の母。つまり、久光は今上天皇の曽祖父です。

京都で島津斉彬の急死を聞いた西郷隆盛は、殉死しようとする程に絶望します。

しかし、月照(清水寺成就院の僧侶)らの説得もあり斉彬の遺志を受け継ぐことを決意します。

月照を演じるのは尾上菊之助さん

→尊王攘夷派の僧侶。
「尊皇」とは天皇を敬うこと。
「攘夷」とは外国人を打ち払って国内に入れ ないこと。
→徳川定家の継嗣問題では一橋派に協力。

 隆盛、入水自殺と奄美大島での潜伏

安政の大獄により月照の身も危険となり、近衛家から月照の保護の依頼を受けた隆盛は、月照を助けるために薩摩藩に保護をもとめます。

しかし、斉彬なき薩摩藩は、幕府には逆らわないという立場に方向転換していたため、月照の保護を頑なに拒否、幕府の目がある日向国へ追放するように命じます。

隆盛へは、月照を殺害するように命じたとも言われています。

絶望した隆盛と月照は抱き合いながら錦江湾に入水自殺します。

隆盛は奇跡的に一命を取り留めますが、月照はそのまま帰らぬ人となりました。

西郷隆盛、30歳のことです。

西郷隆盛は深い悲しみの中にいました。

一説によると、西郷隆盛の家族は隆盛が自殺をしないよう刃物を隠したといいます。

その後、薩摩藩は西郷隆盛を幕府から保護するために、年6石の扶持米を付け、奄美大島行きを命じます。

【1859年】

隆盛は奄美大島へ旅立ちます。

初めは島に馴染めなかったといいます。

大きな声を出して木刀を振ったり、大木で相撲を取る姿に島人たちは西郷のことを、「大和フリムン(狂人)」と呼んでいたといいます。

しかし、藩の役人に厳しい取り立てをされるサトウキビ農家を助けたり、貧しい人に自らの扶持米を分けて助けたりすることもありました。

また、村人に学問を教えるようになります。

西郷隆盛は自然に島民たちから慕われる存在となります。

そして、2番目の妻 愛加那を娶り、一男一女を授かります。

スポンサーリンク

隆盛、薩摩への帰還、徳之島〜沖永良部島への流刑

【1860年】

  • 3月
    井伊直弼が殺害される(桜田門外の変)大老井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸藩を中心とした人物たちに殺害されると、藩は急速に求心力を無くしていきます。

    この機を逃すまいと、当時、実質的に薩摩藩の実権を握っていた島津久光は、かつて兄の斉彬が計画していたように、幕政改革を求め京都に入ることを考えます。

    久光に登用され信頼されていた 隆盛の幼馴染で朋友の大久保利通は、薩摩藩の上京計画には隆盛の力が必要と考え、久光に隆盛の召喚を願い出ます。

    https://twitter.com/livedoornews/status/846562494990565376

【1862年】

  • 2月 孝明天皇の妹 和宮が14代将軍 徳川家
    茂に降嫁。
    → 幕府側の数回にわたる強い要望により、攘夷鎖国体制に戻すことなどを条件に降嫁。
  • 4月 寺田屋騒動
  • 6月 島津久光、江戸に入る
  • 7月 西郷隆盛、徳之島へ流される
  • 8月 生麦事件

薩摩に戻った隆盛は、久光の上洛に反対します。

久光にも厳しい言葉で反対し久光との不和が決定的となりますが、大久保利通に説得され上洛に動くこととなります。

隆盛は久光より3日はやく京都に向け出発、下関で久光と合流する命令を受けていました。

しかし、薩摩藩が倒幕に動いたと思った薩摩藩の急進派の浪人や志士たちが京都や大坂に集結、挙兵や焼き討ちを企てる穏やかでない状況であると知った隆盛は事態を鎮静化すべく大坂に向かいます。

隆盛が下関での待機命令を違反したことに加え、隆盛らが急進派の志士たちを扇動していると報告を受けた久光は激怒。

隆盛は薩摩に送還され、徳之島へ流されてしまいます。

隆盛が徳之島にいると知った妻の愛加那は、2人の子供を連れて奄美大島から徳之島を訪れます。

隆盛は妻子との再会を果たすことができました。

2人目の子である菊子については、隆盛が奄美大島を去った後(徳之島に来た1ヶ月前)に産まれているので初対面となりました。

しかし幸せは長くは続きませんでした。

数日後、隆盛は沖永良部島への遠島となります。

薩摩藩 島津久光の動き

一方、久光が京都に入るのを機に急進派の志士たちは挙兵を計画し、「寺田屋」に集まります。

朝廷はこのような動きを沈めるよう久光に命じます。

そもそも久光は、武力によって倒幕するつもりなどなく、朝廷と幕府の中を取り持ち公武融和による幕政改革を成し遂げようと考えていました。

久光はすぐに、急進派の志士たちの鎮圧に乗り出します。

ここに薩摩藩士同士が斬り合う「寺田屋騒動」が起こります。

この迅速な対応により、久光は朝廷から信頼を得ることになりました。

結果、久光は幕政改革の勅許を受け、勅使の大原重徳と共に江戸に入ることとなり、一橋慶喜(後の徳川慶喜)を将軍後見職に、福井藩主 松平春獄を政事総裁職にすることに成功します。

イケメンであったと有名なケイキさんこと徳川慶喜(よしのぶ)。

かつて島津斉彬が第14代将軍に推してた人です。

順風満帆に思えた薩摩藩。

ところが、事件が起こります。

8月、久光が400名の軍勢を引き連れ江戸から京都へ戻る折、差し掛かった武蔵国の生麦村で、騎馬のイギリス人4人が行列の向かいからやってきて、下馬指示が理解できず、道の端に寄ったものの道幅いっぱいだった行列に紛れ込んでしまいます。

大名行列に紛れ込んでしまった訳ですから、当然当時の価値観ではとんでもない非礼。

イギリス人1名が薩摩藩士により斬り殺され、2名が負傷、女性1人は難を逃れます。

このイギリス人殺傷事件(生麦事件)がきっかけとなり、なんと薩摩とイギリスの戦争に発展します。

【1863年】

  • 7月
    薩英戦争勃発。自国民が生麦事件で殺害されたことに対し、犯人の処刑と賠償金の支払いを求めイギリス艦隊が薩摩に襲来し、戦争がはじまりました。

    この戦いで痛手を折った薩摩藩は、これまでとっていた攘夷路線から軟化、一方、イギリスも態度を軟化させると、薩摩藩とイギリスは接近するようになります。

     

隆盛、薩摩藩への復活と勝海舟との出会い

【1864年(元治元年)】

薩英戦争がおこっている間に、京都で勢力を伸ばしたのは尊王攘夷を唱える長州藩でした。

しかし、薩摩藩は会津藩と協力し、尊王攘夷派の長州藩勢力一掃(八月十八日の政変)し、島津久光は京都に上洛。再び幕府と朝廷の間に入ろうと試みます。

しかし、しかし、久光が試みた公武融和策が一橋慶喜との意見の対立で行き詰まりを見せ始めると、西郷隆盛を沖永良部島から帰還させようとする運動が起こります。

西郷隆盛の人望と手腕が高かったことが伺えます。

この時、西郷隆盛36才。

[2月]

  • 西郷隆盛、薩摩藩に戻る

[3月]

  • 西郷隆盛、京都に入る。軍賦役兼諸藩応接役に任命される。

    →西郷隆盛が任命された軍賦役とは軍事司令官であり、諸藩応接役は外交官といったところで、相当な重役を任されたことになります。
    いよいよ、西郷隆盛の活躍が始まることとなります。

[6月]

  • 新選組が長州藩を中心とした尊王攘夷派を襲う(池田屋事件)

7月

  • 蛤御門の変(禁門の変)

 

[9月]

 

  • 第一次長州征伐西郷隆盛、勝海舟と初会談。

→この時に、勝海舟という人物に惚れ込んだ西郷隆盛。勝海舟の思想に大いに影響を受け、藩同士が争うよりも力を合わせた方が良いと考えるようになります。

この出会いが「江戸城の無血開城」に繋がることとなります。

→勝海舟役のキャストはまだ発表されていません。

当時の薩摩藩は、幕府との関係も良好ではなく、久光の公武融和策も頓挫、八月十八日の政変によって評判も悪くなっていました。

そこで西郷隆盛はまず、京都での薩摩藩の信頼回復に尽力します。

長州藩の一掃に協力し合った会津藩とは距離を置き、朝廷の守護に努めます。

一方、寺田屋騒動によって自藩の藩士が襲われた長州藩は、京都に向けて大軍を進軍させ京都を取り囲みます。

この騒動に京都所司代から出兵の要求を受けた薩摩藩でしたが、「これは、会津藩と薩摩藩のこと」と出兵を拒否し、禁裏守護に専念します。

しかし、長州藩の大軍が御所に向かって凄まじい勢いで進軍を開始し、蛤御門を中心に会津藩の兵を蹴散らし、御所内に入る勢いとなります。

この状況に、西郷隆盛は薩摩藩の兵を連れて蛤御門に駆けつけ、長州藩の兵と激しい戦いをくりひろげます。

西郷隆盛は負傷したものの、長州藩の兵を退けることに成功しました。(蛤御門の変)

これを機に幕府は長州藩の討伐を考え、朝廷から長州藩追討の勅命を受けることに成功すると、薩摩藩を含む21藩に長州への出兵を命じます。

この長州征伐の総督は尾張藩主 徳川慶勝、西郷隆盛は参謀として長州に向かうこととなります。

しかし、この時隆盛はこの長州征伐を早く終わらせることが得策であると考えていました。

薩摩藩と長州藩が争うことは幕府の利益になることであり、日本全体のためにならないと考えていたからです。

そこで隆盛は、武力を用いることな長州藩に処罰を与えて長州征伐軍を解散させようと考え、長州藩の支藩である岩国藩に働きかけます。

岩国藩主である吉川経幹は隆盛に感謝し、長州藩に働きかけますが、奇兵隊などの反発により上手くいきませんでした。

この長州藩の反発状態は幕府に出兵の名目を与えかねないと隆盛は考え、問題解決のために自ら長州藩に乗り込み、奇兵隊などの幹部と直接話し合おうと考えます。

当時の長州藩といえば、八月十八日の政変や蛤御門の変により薩摩藩のことを憎んでいました。

薩摩藩の商船「長崎丸」が関門海峡で長州藩の砲撃を受ける事件も起こっています。

しかし、隆盛は周囲の反対を押し切って長州の下関に入り、諸隊の幹部などと会談します。

隆盛は長州藩の説得に成功し、この第一次長州征伐は武力衝突することなく平和的解決をします。

【1865年(元治2年/慶応元年)】

→ 蛤御門の変などをはじめとする災異が頻発したため「慶応」に改元します。この改元にあたっては「慶応」以外に「平成」も候補となっていました。

「慶応」は1868年までの江戸時代最後の元号、つまり「明治」の前の元号となります。

スポンサーリンク

「薩長同盟」〜「公武融和」から「倒幕」への変換 〜

第一次長州征伐で総督を務めた徳川慶勝は長州征伐軍を解体させ、平和的に解決したかに思えました。

しかし徳川慶勝による長州の処分が甘いと考えた幕府は、再び長州征伐の準備に入ります。

このような幕府の対応に西郷隆盛ら薩摩藩士は不満に感じ幕府からの出兵命令を拒否しました。

また、薩摩藩同様に幕府に不満を感じていた土佐藩士、土方久元、中岡慎太郎、坂本龍馬は薩摩と長州の同盟を画策します。

薩摩と長州の同盟締結は困難を極めましたが、西郷隆盛を坂本龍馬が説得します。

そしてついに、薩摩藩からは西郷隆盛、長州藩からは桂小五郎が出席、坂本龍馬立ち会いのもと秘密裏に「薩長同盟」が締結します。

ここから、薩摩藩は本格的な倒幕に舵を切りますが、島津久光と西郷隆盛の考えには温度差がありました。

「西郷どん」坂本龍馬、中岡慎太郎のキャストはまだ発表されていません。

龍馬伝で坂本龍馬を演じた福山雅治さん。

マジ顔と笑顔の中岡慎太郎

【1866年(慶応2年)】

[1月]

  • 薩長同盟 締結
  • 坂本龍馬、寺田屋で襲撃される

 

[6月]

  • 第二次長州征伐

[7月]

  • 徳川家茂 死去

 

9月]

  • 第二次長州征伐の停戦合意成立

[12月]

  • 徳川慶喜が第15代将軍に就任
  • 孝明天皇崩御

    次回、いよいよ江戸時代の終焉です。近日更新いたします。

スポンサーリンク